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第5回年次大会・シンポジウム 発表レジメ2

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◇第5回年次大会・シンポジウム
西田における哲学と宗教
発表主旨及び内容
西田における哲学と宗教―禅の立場から―山田邦男(羽衣国際大学)

西田は「宗教的立場」を「立場なき立場」と規定している。この「立場なき立場」とは、「立場なき」立場としてすべての宗教の立場がそこに還滅すると共に、立場なき「立場」としてすべての宗教の立場がそこから成立する、その否定と肯定(無立場と立場)との絶対矛盾的自己同一を意味するであろう。これは「歴史的生命」それ自身の動態であり、特定の「宗教的教義」はその「象徴」ないし「表現」であるとされる。他方、この「立場なき立場」である「宗教的立場」は「平常底の立場」の「徹底」であるともされる。この意味で、それは「終末論的平常底」とよばれている。

「終末論的平常底」とは、我々の行為が「絶対現在の自己限定」として、「頭燃を救うが如き」「一歩一歩血滴々地」なる常行直心として成立することを指すであろう。しかし、これだけならば本来「平常底」だけで足りるはずである。なぜ「終末論的」という言葉が重ねられたのであろうか。西田は、この「終末論的」がキリスト教的な意味ではないと断った後、「我々の自己自身の底に、何物も有する所なく、何処までも無にして、逆対応的に絶対的一者に応ずるのである」と続けている。ここには罪悪性や有限性の徹底的な自覚における個と「絶対的一者」との逆対応が示されている。それ故、「終末論的平常底」という表現には、一方で西田の真剣な禅の居士としての側面が表れているとともに、他方ではキリスト教的ないし浄土真宗的な側面(ただし「内在的超越の方向」におけるものとして)が表われているように思われる。では、この二つの側面と「背後に禅的なるもの」という西田自身の言葉とはどのように関係するのであろうか。

西田は「禅宗といい、浄土真宗といい、大乗仏教として、固、同じ立場に立っているものである。その達する所において、手を握るもののあることを思わねばならない」と述べている。この「同じ立場」とは、両者が前述の「立場なき」立場(空、禅的には平常底、真宗的には自然法爾)に立っているからであろう。「その達する所において、手を握るもの」も基本的にはこれと同じ意味であろうが、しかしそれだけではないニュアンスが含まれているようにも感じられる。禅宗に対しては単なる平常底ではなく、「平常底」の「徹底」と言われる所、真宗に対しては「易往無人の浄信」と言われる所、ここには恐らくそれぞれの立場における行の徹底(「達する所」)において互いに他の立場を肯わざるを得ない(「手を握る」)所が露わになってくるのではないだろうか。といっても、それは両者が一つになるということではない。両者は二而一、一而二である。その動性が「立場なき立場」と言われた所であり、かつそこに西田の「禅的なるもの」があるように思われる。