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第6回年次大会・シンポジウム 発表レジメ2

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◇第6回年次大会・シンポジウム◇
哲学と芸術
発表主旨及び内容

哲学が持ちうる芸術美とはどんなものか?

米山優(名古屋大学)

ヘーゲルの「芸術終焉論」を知っている私たちの時代に、あえてアナクロニスティックと言われかねないことを覚悟で、哲学を一種の芸術にするということを考えてみる。

手掛かりは、文学に近い表現方法を用いた哲学者たちの努力である。例えば、モンテーニュやパスカルやアランといったモラリストたちの文体が参考になる。まさに「文体」というものの意味することが問題なのである。

西田哲学を「哲学的随筆ないし随筆的哲学」などという場合さえあり、それを批判の材料とする場合さえあるのに対し、ここではむしろポジティブにとらえていく。それゆえ、ここで注目する「芸術美」は、主として<散文に備わる美>ということになる。そうした美が成立するのは、散文が言わば生きている場面、言葉が言わば生命を持つような場面だろうと考える。身体を持った存在となる場合に他ならない。それは、単に論理的といわれるような文体のあり方では得られないものである。

では、何が問題になるのか。その問題を、私はまさに「言語と身体」の話として展開してみる。「言語は思想の身体のごときもの」と西田がはっきり書いていることを議論に載せようというわけである。しかも、そうした議論は、西田が、その後期に、「創造的モナドロジー」として展開しようとした事柄と積極的に結びつくことを明らかにする。「散文を構成する個々の語は、散文のひとまとまりとしての作品の中で、そのひとまとまりといわれた全体を把握してこそ理解されるけれども、その全体はまた個々の語から成っている」という当たり前のことにおいて生じる、いわゆる「解釈学的循環」に、見事に入っていくことを可能にするのが「創造的モナドロジー」であることを示す。その際、西田が芸術について積極的に語り始めるのは、<身体的方向に身体を越える>といわれる事態であることを手掛かりに、身体を持つ存在者としての生身の人間が持ちうる「思考」というものを吟味していくことで、「行為的直観」の位置づけのヒントさえも手にしうる可能性を述べる。

そして最後に、散文から世界へと議論を拡げることによって、モナドによって世界が形成される場面の主題化が可能となり、そうした「形成」の場面こそ、実は、「創造的モナドロジー」の真髄とも言うべき部分であることを示すことにする。