◇第6回年次大会・シンポジウム◇
「哲学と芸術」
発表主旨
『芸術と道徳』における西田幾多郎の美学思想
大熊治生(千葉科学大学)
西田幾多郎はその著『働くものから見るものへ』の序において『善の研究』から『芸術と道徳』にいたるまでの立場の推移を要約して次のように書いている。
「「善の研究」に於いて純粋経験を基として物心の対立、関係等種々の問題を解こうとした私は、・・・リッケルトの如き新カント学派の哲学に対して、如何にして自己の立場を主張すべきかを考へた。而して当時、私はかかる立場をフィヒテの自覚の如きものに求めた、・・・「意識の問題」に於いてかかる立場から知情意の区別及関係等の問題を論じ、「芸術と道徳」に於いて芸術や道徳の対象界及その相互の関係等を論じた。・・・」というのである。西田は『芸術と道徳』において美学・倫理学という価値や規範に関する考察を完結させて第二巻『自覚における直感と反省』とあわせて哲学の三部門の体系を完成させようとしたのではないだろうか。『芸術と道徳』においても「フィヒテに似た主意主義の立場」とか「新カント学派に対する立場」は前著作を引き継いでおり、さらに当時のヨーロッパで行われていた主要な哲学者、美学者、心理学者、さらに美術史学者の学説までも渉猟しており、それを自らの体系の中に位置づけている。
『芸術と道徳』の構成を概観してみると、まず西田は、意識や感情といった心理学の問題から出発し、美学の中心問題である「美的感情」や「審美的鑑賞我」の問題をT.リップスやH.コーヘンの理論を再検討する事によって考察する。リップスの「感情移入」とコーヘンの「知覚の予料」の原理を結びつけるのは、西田の言うような「意志の予料」「行為の予料」の原理である。西田によれば「所謂感覚が「知覚の予料」の原理に当て嵌まって客観性を得る如く、所謂実在界は「行為の予料」とも言うべき感情移入に当て嵌まって文化現象となる、すなわち自由性を得るのである。」というのである(真善美の合一点)。こうして美的感情はむしろ能動的意志の働きとして、芸術的創作作用における生命の流れの現われとして考えられることになる。
ここから後期へ向かう二つの流れが考えられる。即ち一つは、「最後の立場」あるいは「絶対意志の立場」であり、もう一つはK.フィードラーの論文から導かれる、芸術的創作作用としての「行為」へ向かう流れである。それは「働くことは見ることである」、あるいは「働くことによって見る」という後期における「行為的直観」への方向である。それは日本の芸道において「型」という概念で語られるような、修行によって到達する解脱への方向でもある。
この二つの方向は前期『芸術と道徳』においては明確に関連付けられてはいないが、後期においては人間の精神活動や文化的行為が宗教的なものによって基礎づけられ、人間的行為のすべてが、そこからそこへと向かう歴史の中へと織り込まれることになるのである。