◇第7回年次大会・シンポジウム◇
「国家と歴史」
発表レジュメ
西田の国家論の特質とその問題点
田中久文(日本女子大学)
西田の国家論の特質と問題点について、『日本文化の問題』(1940年)と論文「国家理由の問題」(1941年)の二つの著作を中心に検討する。
西田は、「国家」の基盤を「歴史的種」としての「民族」におく。しかし、「民族」が「国家」となるためには、個人性、世界性、超越性という三つの契機が顕在化し、「民族」が「理性」的となり、「道徳」的となる必要があるとする。
まず、「国家」においては、個人が強い主体性を発揮し、「自己によつて世界を変ずるもの」とならなければならない。ただし、そうした個人は、「歴史的世界」「創造的世界」を根拠にして初めて成り立つ。つまり、個人は「世界の自己表現の一観点」、「創造的世界の創造的要素」なのである。しかも、そうした世界性の根底には超越性が控えている。西田によれば、世界の自己形成は「イデヤ的」であるという。したがって、「社会がイデヤを宿すかぎり、それは道徳的主体としての国家の名に値するもの」となるというのだ。こうした超越性が「国家」のうちに顕現したものが「法」であり、「道徳」であるとする。
特に西田は、「国家」の世界性に関して、その創造性と歴史性を強調する。各「国家」はそれぞれの「個性」を発揮し、それぞれの「歴史的使命」を果たすことによって、世界が「創造作用に於て一となる」ことをめざすべきだというのである。
以上のような西田の国家論が、当時の歴史的状況においては、その閉鎖性を批判する積極的な意味をもっていたことは明らかである。しかし、今日からみたとき、そこには克服すべきいくつかの問題点があることも否めない。たとえば、「国家」の「道徳」性を強調することは、現実の「国家」が孕まざるをえない非合理性や独善性、さらには「根源悪」(田辺元)の問題を蔽ってしまうことにならないか。また、「国家」のもつ「個性」と「歴史的使命」に関して、西田は「形なき形」(=「絶対無」)としての「文化原型」と、その「メタモルフォーゼ」という観点から説明しているが、「国家」間の水平的な文化接触による相互影響といったことも問題にすべきではなかったか。こうした問題点を同時代の高山岩男や和辻哲郎の国家論と比較しながら考えてみたい。