発表主旨
世界的生命
吉田真一(九州大学大学院)
われわれは死ぬべきものとしてあり、われわれの生命は有限なものとして非連続であるが、西田が「歴史的生命」、中山延二が「世界的生命」と呼んだ世界成立の真理によって生かされている。この世界的生命は連続である。同時に逆の方向であるが、非連続なわれわれの生命によって連続の世界的生命が支えられている。「非連続の連続」である。光が粒子(非連続)と波動(連続)の矛盾した性質を同時にもっているのと同じである。われわれの生命は個物的多であり、世界的生命は全体的一である。一多相即、一即多・多即一(華厳)である。般若心経では色即是空・空即是色と表現されている。この即には、逆のものを異のままに結びつけるという論理性がある(即の論理)。この即の論理を西田は「絶対矛盾的自己同一」、中山延二は「矛盾的相即」と表現した。釈迦の悟りである「縁起」が矛盾的相即であると看破したことは中山延二の業績である。われわれの生命現象も、生と死、緊張と弛緩、同化と異化など、相反するものが「異にして分かつべからず、一にして同ずべからず」(親鸞)という矛盾的相即の論理で成立している。われわれの生命は、生と死という自己矛盾をはらみ、われわれ個人の生命でありながら世界的生命であるという、多と一との矛盾的相即体である。
中山延二は、「我性は根源悪である」と言っている。色(しき)が空相であることを観じないと、われわれは自己の生命に執着し、実体化した我性を根拠にして考え行動する。これが原罪といえるだろう。「世間虚仮、唯仏是真」(聖徳太子)。われわれは世界的生命である矛盾的相即の論理に沿って考え行動しなければならない。われわれの宿命、運命、使命ということも、世界的生命から考え直すことを要する。本多正昭は「科学は空のない色を対象にしている」と言っているが、隠顕倶成(華厳)の矛盾的相即的立場からの現代科学への警告と受けとらねばならない。上田閑照が自然科学の対象となる「生命」、人生や生活というときの「生」に対して、人生の否定に会わないと分からない、ひらがなで書く「いのち」のレベルがあるというとき、その「いのち」が世界的生命であろう。「ここに生きているのはあなたではない。被造物は死すべき存在である。あなたの中にあってあなたを生かしているのは神である。」(シレジウス)
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西田幾多郎と生の哲学
檜垣立哉(大阪大学)
シンポジウムの題名が「生命」ということなので、ここでは「西田幾多郎と生の哲学」という主題をたてて、おもにベルクソンからドゥルーズに繋がっていくフランス二十世紀における生の思考のラインと、西田の議論との関連を探ってみたい。その際に重要なことは、なによりも西田幾多郎の思考のポテンシャリティを、一つの角度から解き放つことにある。
西田の思考が、初期から、ベルクソン的な「生の哲学」ときわめて接近したものであることは繰り返すまでもない。「純粋経験」の記述は、ベルクソン的な潜在性と内包性の存在論と見事に共振している。潜在的なものの現実化を、微分的な議論によって提示する「自覚」論の西田も、新カント派的な図式を使いながらも、まさにベルクソンの問題圏に関わっている。「場所」から「絶対無」へ到る一連の移行は、内包的な存在の位相を突き詰めていく思考の展開として読むことも可能だろう。
しかし同時に西田は、「絶対無」以降の時期において、とりわけ「個物」を問題にする場面で、ベルクソンの発想を強く批判していくことになる。「絶対無」を超えて、「非連続の連続」が論じられる後期の思考は、西田自身がベルクソン的な内包性の存在論の枠組みを脱し、死や他者を織り込みつつ、連続性の哲学とは異なった非連続性の個体論を提示するものであるようにみえる。そうした試みが、一種のベルクソン批判から生じていくことは、フランス哲学におけるドゥルーズの位置と重なるものがある。そして、「生の哲学」が内包性の存在論の徹底化を経ながら、ある種の自己批判を経て変容していくこうした過程は、まさに生命を思考するために原理的なモデルとして、捉えてみる価値があるだろう。
本発表では、西田の「純粋経験」「自覚」論の時期の議論と、ベルクソンの内包性の存在論との連関性、ついで「絶対無」という無底の「場所」に達する議論と「生の哲学」との繋がりを押さえながら、とりわけ「絶対無」以降の西田が、「非連続の連続」という議論のもとに、生の哲学に批判的な距離をとりつつ「個物」を焦点化するに到る転換の意味を、「生の哲学」の内的発展という視角から考えてみたい。そしてそこで、生命の思考として、ベルクソンや西田の議論がどのような原理的な問いを提出しているのか、いささかではあれ検討してみたい。
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いのち教育への批判的論点―西田の生命論を手がかりに―
岩田文昭(大阪教育大学)
教員養成大学に勤務している私は、現在、日本各地で行われつつある「いのち教育」・「いのちの授業」などといわれる教育の実践の可能性とその原理的問題に関心をよせている。この発表では、現代の教育思潮の原理的問題に対して私自身が抱いている疑問を西田に尋ねるという角度から、西田の生命論の意味を考察していきたい。
一般に、本格的な哲学と現実社会の思想潮流、精神運動との間には対立や葛藤を含む緊張関係がある。西田の生命論は、倉田百三を介して通俗化を伴いながら、いわゆる「大正生命主義」の思想潮流に組み込まれ、大きな影響力を与えるようになった。唐木順三が西田の哲学と教養主義の関係について述べているように、両者の間には、相反・衝突・否定がありつつも、動的な連関があることに注目しなければならない。
西田の哲学といのち教育の生命観とには、個物を越えた広がりをもった次元で生命を捉えようとする点に共通性を認めることもできる。しかし、西田哲学から読み取ることができるのは、むしろ、いのち教育の原理的問題に対しての批判的論点である。いのち教育の生命観は、生命のはらむ矛盾に目をそむけがちであり、また人間存在や教育の原理的根拠を真正面から見据えているとはいいがたい。その問題の要点は、いのちを実体的に捉え、いのちに内在する否定的契機を正当に位置づけることができない点にある。具体的には、人間存在以外の生物の生命を尊重することを教えながら、人間のためにそれらを利用する現実をともすれば看過すること、あるいは人間の生命の価値をそれ自体で絶対的なものであるように主張をしている点などがある。
西田の生命論は、いのち教育に刺激を与えるものの、西田の生命論に立脚して、かれの主張をそのまま子どもに教え、矛盾を矛盾として教えることには困難が横たわる。西田に示唆を受けつつ、教育の実践をしようとする場合、一つの方法として、伝えようとする内容を自覚的に限定して教育を行なうという方法が考えられる。この方法は一見、消極的なものと見えるが、直接に教えることのできないものがあることを教師が自覚することで、子どもの側にとっては、授業の内容からは直接には見えないもの、比喩的にいえば、開かれた空間、あるいは余白のようなものが残されることになる。
他方、現代の教育思潮を鑑みることによって、西田の「自己形成」に伴う問題に関する新しい探究の手がかりが開かれていくように思われる。その点を論文「教育学について」(1933年)、「生命」(1944年)などを手がかりに考察してみたい。